1.  そして三善を超える作品なし。これは重要である。伊福部昭は、なるべく弟子には自分とは異なる方向性を指導していたという。アクの強い伊福部流の亜流に堕してしまうのを恐れたのだろう。(残念ながらそうなってしまう場合が多かったろうが。)
     
  2.  吉松隆はいう。ゲンダイオンガク万歳の時代にあって、確信犯的な調性とメロディの音楽の守護者として大人(たいじん)が二人いた。伊福部昭と別宮貞雄だと。

     ※この吉松先生の言葉の出典は、「音楽の友」誌に連載していたCDレビュー「今月の1枚」 2002年2月新譜「別宮貞雄チェロ協奏曲」の原稿です。掲 載は4月号で、吉松隆のHP「交響曲工房」内でのコラムとしてありましたが、サイトのリニューアルにより現在は見られません。
     
  3.  体制への迎合というと伊福部先生も戦時中は陸軍や海軍、挙句の果てには満州国からの委嘱作品まで作ってますが、戦後そういった作曲動機の作品を不 本意であると表明はされてるようですが、変な弁解はされていませんね。ご自身の希望で演奏が禁じられてるという『音詩「寒帯林」』も、作品そのものには何 ら政治的な内容なんか含まれてはいないはずですから。
    (『寒帯林』と『交響舞曲「越天楽」』は是非聴いてみたいんだけど……)
     
  4. 新響のタプカーラでは、いつも2名のピッコロ奏者が演奏する。第3楽章の練習番号43以降、下記の譜例で示すとおりピッコロの最高音付近で非常に効果的な フレーズ続く。この音域では、非常に早い息のスピードと高い息の圧力が必要であると共に、運指も複雑である。おまけに、このフレーズではブレスの位置も無 いという、体力的にも演奏テクニックでも演奏不可能なのである。1935年に作曲された日本狂詩曲の第2楽章でも同様な手法でピッコロが効果的に使用され ているが、こちらはタプカーラに比べて平均的な音域が三度低い事と、オーケストラ全体の響きに隠れる音も有るので隠しブレスも可能であり、演奏不可能では ない。しかし、タプカーラのこのフレーズは、どんな名人・銘器を以てしても演奏不可能なのである。1980年改訂初演から3回の演奏は、原譜の通りピッコ ロ奏者は1名で演奏していたが、ピッコロの音が聞こえてこなかったり、5度下の音が聞こえたりと、作曲者が意図した効果は全く実現できていなかった。譜例 の通り、1番フルートの記譜はピッコロと同じであり、実音はピッコロより1オクターブ低いので、ピッコロが記譜通り演奏されれば殆ど聞こえなくな る。(ピッコロの譜面は実音より1オクターブ低く記譜される)そこで1984年10月の第3回の演奏からは、第3楽章の練習番号42以降、1番フルート奏 者がピッコロに持ち替えて演奏するようになり、作曲者の意図した効果が出るようになった。このとき、演奏者の席順はピッコロ持ち替えの1番フルート、2番 フルート、ピッコロという順番になるので、2番フルートはフォルテシモでオーケストラ最高音に近い音を出し続ける2本のピッコロに挟まれることになり、2 番フルート奏者は毎回の練習の度に耳鳴りと頭痛に悩まされた。これでは、2番フルートの団員があまりに可哀想なので、1985年の第5回目演奏以降は2名 のピッコロ奏者で演奏する現在の演奏様式になった。それでも、一番端に座る奏者には隣の奏者のピッコロの音が直撃するので、一番端の奏者は左耳に耳栓をし て演奏している。第3楽章クライマックスでのピッコロの音響効果は、憑かれたように無心に踊りに没頭している曲想に素晴らしく効果的であるが、ピッコロ奏 者は貧血直前で頭の中が真っ白になり、まさに憑かれたように無心でなければ演奏できないのである。
     今回のタプカーラは伊福部先生が天に召されてから新響では始めての演奏である。伊福部先生は、先
    に天に召された弟子の芥川也寸志先生や石井眞木先生と共に、天上の観客席からご覧になっているに違いない。3人のこんな会話が聞こえてきそうである。


    石井 いつもの事ながら、新響のタプカーラはピッコロ2本で、迫力があって良いですなー。
    伊福部 いつもピッコロ2本で演奏してくれて、申し訳ない事です。
    芥川 申し訳ないことなんか無いですよ。なるべく多くの団員が演奏に参加した方が良いんです。みんな、この曲を愛していますから。
    — 

    新交響楽団ホームページ: 196回演奏会曲目解説プログラムノート

    >伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ

     
  5. シンフォニア・タプカーラ”あるいは“タプカーラ交響曲”は伊福部昭の作曲活動の集大成である、と私は考えている。その理由として、まずこの曲が三浦洋史(現・評論家)に捧げられていることに注目したい。1926年、札幌二中に入学した伊福部が出会った同級生・三浦は、その頃既に抜きん出た音楽通だった。サティー、ドビュッシーといった当時の日本では名前すら知られていなかった音楽を次々に紹介し、西洋青楽に目覚めたばかりの伊福部に“超”カルチャー・ショックを与えただけではなく、「音楽をやる以上は作曲以外は無意味」と説いた。伊福部が後に語っている「私を作曲という地獄界に陥れたメフィストフェレス」、すなわち作曲家・伊福部昭にとってかけがえのない人に宛ててこの曲は捧げられている。
     
  6. [伊福部にとって交響曲とは]
    作曲に手を染めた伊福部にとって最初に広く評価を得た作品は、前回の当団演奏会でとりあげた『日本組曲』の元曲『ピアノ組曲』だった。この曲の4部構成 は、交響曲の形式を意識したものとみる事ができる。また伊福部にとって唯一の作曲の師であったアレクサンドル・チェレプニンにひと月ほど個人教授を受けた 際、交響曲を作曲するにはまだ技倆不足とクギを刺されたのは、交響曲作曲の希望を口にしたからではないか。実際、チェレプニンの教えの、いわば成果として 作曲された『交響譚詩』の第1部はソナタ形式がとられ、交響曲への意欲を伺わせている。すなわち伊福部は、かなり早いうちから交響曲に対する憧れの気持ち を抱き続けていたに違いない。『ピアノ組曲』から21年、名著「管弦楽法」の923ぺ一ジにおよぶ第1巻とほぼ時を同じくして、いわば満を持しての「交響 曲」というタイトルを持つ作品の発表であった。

     
  7. ところで山田一雄はこの録音のころは山田和男だったらしくCDもそうなっている。改名

    したらしいのだが、プロ野球選手ならともかく指揮者では珍しいのではないかと思う。

    — ballata
     
  8. タプカーラとはアイヌの

    「タプカラ(tapkar)」からとったものである。「タプカラ」とは舞い、踊るという意味でアイヌの芸術家Atuyに

    よれば「アイヌの男性の最高の踏舞。両腕を軽く曲げゆっくりと上下させ自らの人生を振り返り礼拝しな

    がら歌う」ものだそうだ。実際の「タプカラ」はキングレコードで出している「世界民族音楽大集成」という

    CDで聴くことが出来る。またアイヌ詞曲舞踊団「モシリ」のレコードにも「TAPKAR踏舞」というのがある。

    さてこの「タプカラ」だが聴いてみると酔っぱらいのおやじが「あーあーうーうー」と唸っている感じのもので

    伊福部作品との共通点は皆無といっていい。ただ伊福部自身が第3楽章の演奏について「腰に酒の徳利

    をぶるさげているつもりで演奏せよ」と指示したと伝えられており「タプカラ」の精神をもって書かれた曲と

    いうことでの命名であろう。

    — tapukara
     
  9. テレビの緊急地震速報チャイムを開発したのは、東大先端科学技術研究センターの伊福部達教授。ちなみに伊福部教授はゴジラの曲を作曲した伊福部昭の甥
     
  10. @daiginga すごい量ですよね、中田校歌。ちなみに家人の中学の校歌は伊福部昭なのですが、生徒には「暗い、重い」と不評だったとのこと。まあ、そうか。
     
  11.  堀「井上さんのエグログは良いですね。井上さんはエグログが好きみたいです。このあとは?」
     
     九「ヤブロンスキー盤です」 

     堀「ヤブロンスキーは演奏もそうなんですが、ミックスが悪くありませんか。トランペットとか、変に大きく入っている」

     九「あれは、ですから、そういう風に指揮したのではないかと思っていましたが。タプカーラとかも、なんか変なところでトランペットが入っているでしょう? ロシア人には、そのペットが主旋律に聴こえたのではないかと思ってました」

     堀「そうなんですかねえ。でも、同コンビで、他の深井さんとか大澤さんとかは、そういうふうになってないんですよ。伊福部先生だけなんか変だ」

     九「それは……伊福部の後で、ナクソスに苦情が殺到したとか(笑)」

     堀「いや、なんか変ですよ、あれは。ピアノも、ミニマルを弾いてるみたいに、妙に軽くありませんか」

     九「外国人が聴いたら、リトミカはミニマルに聴こえるということでは?」

     堀「その可能性はあります。ヤブロンスキー盤のリトミカは、ですから、妙にあっさりしています。淡白というか」

     九「SF交響ファンタジーもそうですね」

     堀「そう、あれは酷い(笑)」

     九「音楽が死んでいます。映画も知らない、音楽も知らない人らですから」

     堀「楽譜しかありませんからね、分かりませんよね」
     
  12.  九「若杉盤がセッション録音だから、そういうのはかなり正確ですね。それに速い!」

     堀「あれは2日かけて録っています。テンポ指定にかなり忠実ですよ。凄いです。読響ですしね。時間もお金もかかってますよ。先生はあの録音は嬉しかった と思います。これはみんないいって云いますね。さいしょLPで出たとき、松村先生の前奏曲と、カップリングがいっしょでした。ジャケットが真っ赤で、なぜ か沖縄のシーサーで(笑) 当時から評判は良かった。それから再発売のときにカップリングが変わりました。小山さんと外山さんになって、民族楽派一絡げに なってしまいました。あれは松村先生のほうが良かったかな(笑)」

     九「あの(小山・外山との)3曲では、短いですよね(笑)」

     堀「あれも、元はLPなんですよ。LPのLPのCD化です。あの演奏は超えられないとみんな云いますね。和田さんでしたか、あのレコードを聴いて伊福部に目覚めたとか。で、次が協奏三題です。自分はあれで初めて聴いたのかな」
     
  13.  九「他に、この曲の特徴とか、ありますか?」

     堀「特徴というか、それこそ武満さんがこの曲を聴いたときに、ゆっくりな部分がなければいい曲だと云ったそうですが」

     九「それはまた、微妙な批評ですね」

     堀「それはつまり、伊福部先生のゆっくりな部分というのは、情緒すぎるということらしいです。ちょっと緊張感が無くなるというか。松村先生から聴いたん ですけども。完成する前に芥川さんや黛さんに見せて、先生これは良い、面白いと褒められたそうなんですが、いざ初演すると、けなされはしなかったけども褒 められもしなかったそうで」

     九「それは、その、長かったから?」

     堀「おそらく。ヴァイオリン協奏曲の1番も最初は3楽章だったけども、長いという批判で2楽章をカットした。先生はちょっと長くしすぎちゃうのかなあ」
     
     九「構成は良いのですが。急緩急緩急、ABA’B’Aですね。確かに、そのA’の、2回目のアレグロが終わる部分も、絃がジャンジャンジャンジャン……と無くなってゆきますが、なんか、とってつけたようで違和感があります(笑)」

     堀「ああ、そこね(笑) バランスが悪いのでしょうか。エグログは緩急〜で、先生にはちょっと珍しい。ラウダはマリンバのアドリヴが長いです。最後は鬼 の三連符で……ミニマルみたいになりますね。吹奏楽版だと特に管楽器ばかりなので、(演奏する人は)面白いみたいですよ。ヴァイオリン協奏曲の2番は、 オーケストレーション的には薄いですね。枯淡系の響きです。リトミカは先生が元気だったころの代表的作品ですが、いちばん洗練されています。シャープとい うか。先生もなんだかんだと、変遷をたどっていますね! 分からない人が聴くとみんな同じに聴こえますが、聴く人が聴くと、けっこう違います。あと、先生 は改訂がたいへん多いです」
     
  14.  九「日本の太鼓にも出てくる、笙のような『みゃーん』という音は、どのようにやってるんですか? 絃楽合奏ですか?」

     堀「絃楽ですね。絃でヴィブラートをかけないでポルタメントをすると、『みゃーん』という笙のような音が出ます。あ、ここです。モルトグリッサンド、ノ ンヴィブラートと書いてあります。絶妙なオーケストレーションですよ、これは。トロンボーンとピッコロとか……使い方を間違ったらだめです。これは絶妙で す」
     
  15.  堀「そうそう。これは1人でもここで飛び出したら、大変なことになりますね(笑) ところで、初演の後に改訂されたというのはご存じですか?」
     
     九「いいえ」

     ※各CDのライナー等には、初演の後一部改訂、などとある。

     堀「初演は、今より10分くらいも長くて、総じて不評だったとのことです。アレグロの部分がもっとずっと続いて、曲は良いのだけど、しつこいとか疲れるとか云われたようです」

     九「本当ですか!? アレグロの部分がですか!? それはしつこい(笑)」

     堀「正確にどの部分、というのは分かりませんが……そういう話でした。全部で30分くらいあったということで、ちょっとやりすぎちゃったんですね。いずれ、公式ホームページのアーカイヴで明らかになるでしょうけど……」

     九「しかし、この最後の部分は凄いです……見ていて酔ってきますね。目がどうにかなりそうです」
     
     堀「これは書いてても酔ってきます(笑) アリの大群のようです……中国で、洞窟の様なところで、壁一面に小さな仏像がびっしりと並んでいるのを見学し て、それに感銘を受けて書いたということですから、そういう風景の印象なのでしょう。アリの大群というのも、アリもたくさん集まると、象も殺してしまう、 と。そういうミクロの集合体のパワーという」